『自分の私生活は公開しないくせに、受講者の私生活を知りたがる講師ばかり…怒…、そこで迷物講師は不平等な関係を改める為に、自分の私生活を積極的に公開しま~す…ハイ!…』
2013年(平成25年)に書いたメッセージです。
(1)
教師による体罰が問題になっていますね。
(2)
明治維新になって、突如として欧米のキリスト教文化が入ってきました。
これによって日本の近代化が始まり、東の果ての野蛮な国は、確かに物質の豊かさを享受できるようになりました。これは認めなければなりません。
でも欧米のキリスト教文化は、同時に、完全主義をもわが国に輸出しました。
この完全主義がもたらされたことが、教育問題をはじめとする非物質的な社会問題の根源にある、と私は青年時代から思っていて、今でも変わっていません。
(3)
そもそも江戸時代までの日本は、言ってみれば「出来そこない」文化です。
落語の熊さん・八つぁんに説教を垂れる御隠居さんも、完全人間ではなく「出来そこない」。
わが国の水墨画は文人画(やたら空白が多い画風)ですが、これでさえ本家中国からは「出来そこない」の亜流とされています。
文人画は、中国では科挙試験に落第して出世を諦めた人や御隠居さんが描くものであり、中国の正統派からは軽く見られていたのです。雪舟の天の橋立も「出来そこない」ということですね(笑)。
どこか物悲しく、憎めない「出来そこない」の集まり。それが日本社会であり文化です。
この「出来そこない」文化は、現在に至るまで脈々と受け継がれています。
居酒屋で上司の悪口を言うことや酔っ払いへの寛容さ、ぱちんこ屋の隆盛、お花見でのドンチャン騒ぎなど、あげたらキリがないです。
だから、欧米のキリスト教文化がもたらした完全主義は、みんなが「出来そこない」の日本人にとっては、しょせん「借り物」に過ぎないと思います。
(4)
私は、教師による体罰が問題になってから、あらためて教育基本法第1条の教育の目的を読んでみました。「教育は人格の完成を目指し…」なんてうたっています。
でも、「人格の完成」って何だよ? という気分です。
教育基本法は、こういう訳の分からない言葉からして、完全主義に毒されています。
なぜなら、児童・生徒の「人格の完成」を求めるなら、それを教える先生はすでに「人格の完成」が達成されていなければならず、みんなが「出来そこない」の日本人にそんな神様みたいな先生がいるはずないからです。
なんて思うままに書いてきましたが、私は宅建の先生なので、最後に一つ。
宅建試験は、2年度連続の出題ミス(平成23年度と平成24年度)が物語るように、出題者も「出来そこない」です。
合格法を教える講師は、もっと「出来そこない」。
教わる受験者は、講師と同じくらい「出来そこない」でしょう。