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迷物講師の妻はスゴイ努力家

慶應義塾大学のサイトによれば、慶應義塾大学病院(慶応病院)の初代病院長であった北里柴三郎(嘉永5年12月20日 - 昭和6年6月13日)の遺訓によって、昭和25年に、保健婦・助産婦・看護婦の養成を目的に、医学部附属「厚生女子学院」(3年制の専門学校)が開設されました。

わたくし迷物講師の妻は、その厚生女子学院の卒業生です。
慶応義塾の関連サイト

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ところで彼女は、小児喘息(ぜんそく)の発作が大人になっても度々出るので、当時自動車メーカー勤務だった迷物講師は、「空気が綺麗で水道水が旨いと評判だった、神奈川県小田原市」に転居し、そこで3年間新婚生活を送りました。

その3年間、彼女は小田原市立病院の小児科や産婦人科に勤務しましたが、そこで大騒動が起きました。
5つ子が誕生し、その看護をしたのです。

この大騒動がきっかけで、彼女は小児看護学を極めたいと思うようになりました。
時を同じくして(小田原市に転居して2年半後)、喘息もほぼ治まりました。

それから、ここでは書けない事もイロイロあって、千葉県船橋市に転居してから一男一女に恵まれた、というわけです。

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ところで前述したように、彼女が看護婦(現在の看護師)免許を取るために卒業した厚生女子学院は、3年制の専門学校です。
「小児看護学」を極めるには、最低でも4年制大学を出る必要があるので、彼女はイロイロ悩んだようです。

一男一女に恵まれた当時、わたくし迷物講師は小さな雑貨販売業(いわゆるバッタ屋)を営みながら、司法試験の勉強をしていたのですが、家族を養える収入なんて在りませんでした。

そこで奥さんは、わたくし迷物と子ども達を食べさせるため、看護師の仕事をしながら、大学を目指すことになりました。
それで入学したのが、通信制の4年制大学である放送大学でした。

放送大学は4年間でチャント卒業でき、その頃は我が家にも少しお金の余裕が出来たので、彼女は大学院に通学し、そこで学位(その時は修士)を取りました。

さらに「小児看護学」をレベルアップさせようと、栃木県大田原市に開設されたばかりの国際医療福祉大学で講師を、次は栃木県宇都宮市付近の独協医科大学、そして現在は某大学に移り「小児看護学」の教授をしている、というわけです。

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宅建倶楽部のスタッフが、ツイッターで、
奥さんが迷物講師の初孫を抱いている写真に、軽い気持ちで「右が奥さん(某大学看護学部教授)」って書いたら、自慢話してんじゃネーヨ!!! という苦情が複数あったので書いたのが、今回の記事です。

うちの奥さんは、福島県福島市郊外にある、第二次大戦後に出来た開拓部落出身者です。

ところで令和5年(2023年)1月、
私の笠原聖一郎君のことというツイッターの記事を読んだ、存命中の笠原を知っている男性の方から電話を頂きました。

40~50分話し込んでしまったのですが、その方によると、上記開拓部落出身者は、今でもイロイロと差別されているそうです。

奥さんは4人兄弟の末っ子ですが、上の兄弟三人は、中卒または高卒で地元農協に就職したいと試験を受けても、全員不合格だったそうです。

地元農協にも入れなかったどんびゃくしょう(差別用語ですがスイマセン)」が、一念発起して福沢諭吉の慶應義塾大学の一員にならせてもらって、努力に努力を重ねて、やっとなり得たのが看護学部教授の地位なのです。

ご理解いただけると嬉しいです

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写真は、うちの奥さんが勤務していた頃の
小田原市立病院



令和 4年12月 4日(日)記
令和 5年 2月10日(金)追記


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